FC2ブログ
topimage

2019-09

水川青弥 「出会い」 1 - 2009.01.13 Tue

rinmina3
 本校舎から少し離れた別館の裏庭に、時間の流れに取り残されたようにひっそりと建つ寂れた温室。
 そこがおれの隠れ家。唯一、気の休まる場所だ。
 この春、聖ヨハネ学院高等学校に入学して間もなくおれはこの温室を見つけた。最初、緑色の小屋が建っているのかと思ったけど、近づいてみると太陽の光が降り注ぐガラス張りの小屋の中で植物が一斉に葉を広げていた。中へ入ると、所狭しと並べられた植木鉢はまったく手入れがされていないようで、どれも伸び放題になっていた。それでも植物たちは健気に白やピンクやブルーの花をつけている。その野趣溢れる温室を、おれはひと目で気に入った。水やりだけはときどき誰かがしているようだけど、半ば放置されている場所ならば、尚更おれには好都合だった。
 それからおれは、休み時間や放課後のほとんどをこの温室で過ごすようになった。今まで水やりをしていた誰かさんの変わりに植物たちに水をやり、それから窓際に造りつけられたカウンターのような棚の前になにかの空き箱らしき木の椅子を置き、それに腰をかけてスケッチブックを開く。絵のモデルならここにはいくらでもいる。誰にも邪魔されずに鉛筆を走らせるひとりの時間がおれにはなによりも大事だった。
 そのとき、白衣姿の若い男が温室に近づいてくるのが見えた。1年生に生物を教えている藤内(とうない)先生だ。
 先生は温室のドアを開けるなり俺を見ずに話し出した。
「おお、また水やりやっといてくれたのか。悪いな」
「いいえ、ついでですから」
「本当はここは俺の管轄らしいんだがどうも面倒でね」
 らしい、と言うあたりにこの男のいい加減さが窺える。
「おれが毎日水やりしておきますから、先生は心配しなくても大丈夫ですよ」
「それは邪魔だからもうここへは来るな、ということかな?」
 先生がにやりと笑った。おれはばつが悪くなって、ずれてもいない眼鏡のブリッジを左の中指で押し上げた。
「いえ……そんな……」
「まあ、俺は助かるからいいけどね。ただし、くれぐれもここで煙草を吸ったりするんじゃないよ。見つかれば俺の責任が問われるんだから」
 見つからなければいいということか?
「はい、わかりました」
「まあ、水川(みながわ)は学年トップの優等生だから心配はしてないけどな」
 そう言いながら、先生は白衣の裾を翻して温室をあとにした。
 再び静寂が戻る。
 なのにおれはなんとなく居心地が悪くて、何度も足を組み直した。
 優等生――おれの特徴を端的に言い表すとそういうことになる。けれどそれはおれが望んだことじゃない。
 この高校はカトリック系の私立校で、県内でも有数の進学校だ。全生徒のうち4割が国公立、3割が有名私立大学に進学し、残りは付属大学に進む。いわば勉強のできるお坊ちゃんが入る高校だ。おれはここの理系コースに籍を置いている。ただし、間違ってもお坊ちゃんなんかではない。
 おれの父親は会社員で、母親は専業主婦。生活レベルは中の上くらいの、ごく一般的なサラリーマン家庭だ。多分、おれに兄弟がいたらヨハネ学院には入学していなかっただろう。幸か不幸かおれはひとりっ子だった。両親はおれに期待し、おれの教育に多額の金を注ぎ込んできた。そんな両親の強い勧めで得意科目を生かしてこの高校に進学したけれど、小さい頃から絵を描くのが好きだったおれは、本当は美大を目指したかった。
 けれどそんなこと言えるはずもなく、おれは両親のプレッシャーから逃れるためにヨハネの学生寮に入った。おれがヨハネを受験してもいいと思えた理由はここにあった。
 寮生活にはプライバシーというものがほとんどないけれど、この温室だけは外界の煩わしさからおれを守ってくれる。過干渉の両親の手を離れた今、おれはようやく真の安らぎを手に入れた。そう思っていた。
 彼――宿禰凛一(すくねりんいち)と出会うまでは……。

                                            text by sakuta



目次へ2へ





水川青弥 「出会い」 2 - 2009.02.16 Mon

 おれは夏が嫌いだ。
 蒸し暑いし、汗をたくさんかくし、だるくてなにも考えられなくなる。
 春の間は居心地のよかった温室も、日が高いうちは使えなくなった。長かった梅雨が明けてからは、朝と夕方に水やりをするようにしている。とくに太陽が傾いた放課後が、おれの本格的なくつろぎの時間だった。煉瓦造りの校舎と西に落ちていく太陽が作り出す影に温室が呑み込まれるまで、大抵ここでひとりで過ごしている。
 おれは気持ちの赴くままにスケッチブックに鉛筆を走らせる。そうしていると、その日あったくだらない出来事を忘れることができる。ささくれ立って荒れ果てた心を平らにならし、その上から自分の求める平穏な時間を上書きする。おれにとってそれは毎日の儀式のようなものだった。
 手元が暗くなってきて、おれは植物のスケッチを断念した。鉛筆とスケッチブックを鞄にしまい、南の国の大使館を挟んだ隣の敷地に建つヨハネの学生寮へ帰る。
 寮での生活にプライベートはない。1年生は基本的に4人部屋で、2、3年生になると2人部屋になる。大学の受験勉強に集中させるためと、共同生活に馴染めない生徒が退寮して部屋に空きが出るためらしい。
 けれど、おれは人数の関係で最初から2人部屋を割り当てられた。ほかの1年生は羨ましがるけど、2年生と同室だからおれとしては微妙だ。
 この2年生のルームメイトがまた変わり者だった。
「ぼくのことは猫かなんかだと思って」
 初対面の日、おれよりも頭半分ほど小さくて色白の根本香樹(ねもとこうき)は、全体的に小作りな顔の中でアンバランスなほど大きなつり目をくりくりさせながら言った。
 猫というだけあって、彼の行動はいかにも気ままだった。おれの知る限り、彼が部屋でじっとしていることはほとんどない。もしかしたら本当に縄張りのパトロールでもしているんじゃないかと思うくらいだ。おかげでおれはほぼ1人部屋状態だ。生来、他人とコミュニケーションをとるのが億劫な性格のおれにはむしろ都合がよかった。
 根本先輩が部屋に姿を現したのは、消灯前の点呼の直前だった。
「なんだ、テスト終わったのにまだ勉強してるの?」
 先輩がおれの肩越しに机の上を覗いていた。
 おれは数学の問題を解く手を止めた。そういう先輩が部屋で自習をしているところを、おれはまだ一度もみたことがない。もう2年の夏なのに。ヨハネは進学校だから、この人も一応は大学へ進学するつもりなんだろうけど……。
 そのとき、ドアをノックする音が響いた。ドアが開いて、寮長の3年生が顔を覗かせる。
「お、猫はちゃんと戻ってたか」
「たまにはね~」
 たとえ相手が上級生であっても、根本先輩のマイペース振りは変わらない。ある意味あっぱれだ。
 そういえば、根本先輩が点呼の時間に部屋にいないことなんてざらにあるのに、問題になっている様子がまったくないのは不思議だ。
「いつもこうだと助かるんだけどね。お楽しみも程々にな」
 寮長が形ばかりの点呼を済ませて立ち去ると、根本先輩が話しかけてきた。
「水川はなにも訊かないよね。ぼくに興味がない?」
 突然そんなことを訊かれても……。
「訊いてもいいんですか?」
「いや、困る」
「だったらいいじゃないですか」
「でも丸々無視されてんのも癪に障るな。言っとくけど、ぼくここのアイドルだよ? 同室になって4ヶ月、いまだになんにもないなんて信じられない!」
 おれにはこの人がなにを言っているのかわからない。
「わかった! 堅物な水川となら間違いも起こらないだろうと思ってぼくと同室にしたんだ! もしくはこいつもぼくと同じタイプなのか。そしたら間違いなんか起こりっこないもんな」
「間違いって? タイプって?」
「あいつ、そんなに心配ならぼくに首輪でもつけておけってんだ」
 どうやらおれの声は耳に届いてないらしい。
「ふんっ、ぼくはいつだって自由だ。誰と同室だろうと関係ないもんね」
 そう言って先輩は再びどこかへ出かけていった。
 一体あの人は何者なんだろうか。
 そして、この寮を監督しているはずの教師はなにをやっているのか。


 朝、学校に着くと、廊下に人だかりができていた。先日の期末テストの結果が貼り出されたのだ。
 おれも見にいこうとしたら、群の中から面倒な男がこちらに向かって歩いてきた。
「おはよう、水川」
「……おはよう」
 挨拶をしてそのまま脇を通り過ぎようとしたら腕を掴まれた。
「わざわざ見にいかなくても教えてやるよ。今回、水川は2位だったよ。惜しかったな」
「ああそう」
 腕を引こうとしたが、がっちりと掴まれていて振り解けない。
「もちろん1位は僕だよ。水川、いくらトップの成績で入学しても、そのあと結果を出せないようじゃ意味ないよな」
 同じ理系クラスの高橋は、入試でおれがトップだったことがよほど口惜しかったらしく、なにかとおれに対抗心を燃やしてくる。はっきり言って面倒臭い。
 高橋の言葉を上の空で聞きながら、おれは前方の人だかりに視線をやった。すると、その中のひとりに自然と目がいった。隣のクラス、つまり文系クラスの生徒だ。名前はたしか宿禰とかいったはずだ。取り立てて目立つ存在ではなかったけど、長めの黒髪と端正な容貌が人目を惹く。ひと言で言うならば“色男”というやつだ。
 不意に、宿禰と目が合った。まさか向こうが気づくと思ってなかったおれは、慌てて視線を逸らした。
 おれはあいつを長く見すぎていたのかな。
「おいっ、聞いてるのかよ」
 おれの腕を掴んだままの男を思い出し、おれは視線を高橋に戻した。
「聞いてなかった」
 正直に伝えると、高橋の顔が見る見る赤くなっていく。
「こいつ、バカにしやがってっ」
 高橋は逆上し、おれの制服の襟元を両手で掴んだ。
 おまえが1位だったんだから、それでいいじゃないか。
 そう言ってやりたかったけど、襟を締め上げられてうまく声が出ない。
 周囲の生徒たちもようやくおれたちの異状に気づいたらしく、高橋の友人が止めに入ってきた。
「おい、高橋、やめとけよ。くだらないことで問題を起こすな」
 そのひと言で冷静さを取り戻した高橋は、おれを放して友人と一緒にそそくさと立ち去った。
 残されたおれは壁にもたれて咳き込んだ。
 ふと視線を感じて涙目を上げると、その先におれを見つめる宿禰の姿があった。
 彼がなにを思っているのかはわからないけど、自分の醜態を見られたことが恥ずかしくて、おれは彼に背中を向けてもと来た道を戻り始めた。

                                            text by sakuta



目次へ1へ3へ



水川青弥 「出会い」 3 - 2009.02.17 Tue

 出生率が低下の一途を辿る現在、私学はどこも生徒の獲得に躍起になっている。入学希望者を増やすための人気取りになりふり構わず邁進する。そんな中、最近増加傾向にあるのが“塾いらずの学校”である。
 せっかく高い入学金と授業料を払ってレベルの高い私立校に入れたのに、勉強についていけない我が子のためにさらに高い金を払って塾に通わせる親の経済的負担を減らす、という建前で長期休暇に無償で特別講習を行い、良心的かつ活気のある校風をアピールして人気を集めようというのだ。
 伝統と格式のあるこの聖ヨハネ学院高等学校は、そんな手段を使ってまで人気集めをする必要はなかったが、もともと高い進学率をさらにアップしたいらしく、この夏期休暇中に全学年で希望者のみを対象とした特別夏期講習会を開くことになった。
 これは、休暇中も実家に帰省したくないおれにとっては渡りに船だった。
 受講生の募集が始まってすぐ、おれは実家から有名予備校の夏期講習に通うよう勧める母親を説得し、まんまと寮に残る許可を取り付けた。これで平穏な夏期休暇を過ごすことができる。
 ただひとつだけ誤算だったのは、同室の根本先輩がやはり帰省届けを出していなかったことだ。
 まあ、あの人はどうせいつも部屋にいないんだから関係ないか。
 なにはともあれ、制服を着用して寮と学校を往復するおれの夏期休暇はスタートした。


 朝、身体の上に慣れない重みを感じて目が覚めた。
「お・は・よ・う」
 なんとおれの腹の上に根本先輩が跨っていた。
「朝ごはんにする? それともぼくにする?」
 おれは見えない目を細めた。
「なに朝から馬鹿なこと言ってるんですか」
「あ~、いま馬鹿って漢字で言っただろ。ぼくそうゆうのわかるんだからね」
 ぷっくり頬を膨らませるこの人のどこが先輩に見えるだろうか。
「いいからどいてください」
「ちぇっ、ホントみなっちってつまんない」
「そのみなっちっていうのもやめてください」
「じゃあ、セイちゃん」
「普通に水川でお願いします」
「だったらチュウして。そしたら言うこと聞いてあげる」
「……セイちゃんでいいです」
 先輩がどけると、おれは枕元に置いてある眼鏡をかけてベッドから出た。パジャマから普段着に着替える間も、先輩は「肌きれいだよね」とか「腰細いね」とかセクハラ発言を繰り返していたけど、おれはそれらをことごとく無視して食堂へ向かった。
 寮にはおれと根本先輩以外にも残留組が少なからずいた。夏期休暇中も寮母さんたちはおれたちの食事の世話をしに通ってきてくれる。おかげで1日3回の食事の心配はしなくてよかった。外出するため寮で食べないときは、前もって外出届を提出するときにその旨を伝えることになっている。
 朝食を終えると、根本先輩は早速どこかえ消えた。おそらく外出したんだろうけど、あの人の場合、ちゃんと外出届を出しているのかさえ疑わしい。
 いや、寮の飼い猫だと思えば、誰も彼の自由を阻害する気にはならないかもしれない。
 とりあえず、午後の夏期講習が始まるまでおれの平穏は約束された。
 夏期講習は午前と午後の部に分かれていて、どちらか一方のコースを選択する形で行われている。おれは午後の部の理系クラスを選んだ。午前の部にはあの高橋がいるからだ。あいつは午前中はヨハネの、午後はよその超有名予備校の夏期講習に通っているらしい。本当によくやる。
 おれは温室の草花に水をやりに学校へ向かった。温室は通気用の窓が開けっ放しになっているけど、雨に濡れることはないし室温もかなり上昇するので、夏場は朝夕の2回水やりをしないとすぐに枯れてしまう。ここの管理人の藤内先生は、本当にここの世話をおれに任せっきりにするつもりらしい。さすが古文の藤宮先生とともに問題教師と並び称されるだけのことはある。ヨハネの藤藤コンビといえば知らない生徒はいないくらいだ。
 温室の水やりを済ませて寮へ戻る。静かな部屋で夏期休暇の課題をやったり本を読んだりしながら過ごし、昼食を食べたあと制服に着替えて、おれは再び登校した。
 夏期講習の内容はほとんど1学期のおさらいだった。はっきり言っておれには温い。後半に入ったら難易度を上げていくつもりらしいが、よその予備校の夏期講習と掛け持ちしたい高橋の気持ちもわかる気がした。
 講習が終了し、おれは温室へと急いだ。もちろん、スケッチブックと鉛筆は鞄の中に入っている。たとえ休暇中でも、この習慣を変えるつもりはなかった。
 朝のうちは晴れていたのに、エントランスを出ると空には今にも泣き出しそうな鉛色の雲が立ち込めていた。おれは駆け足で裏庭へまわった。そしておれが温室へ駆け込むのとほぼ同時に大粒の雨が降り出した。
「この降り方ならただの通り雨かな」
 屋根を打つ激しい雨音を聞きながら、おれは今日のモデルを探した。
「よし、今日はおまえにしよう」
 おれは黄色い花を咲かせている鉢を選んだ。花の大きさや形からするとキク科の仲間らしいが、立ち木性ではなくほふく性の強い種類のようで、1メートル以上伸びた茎が棚から垂れ下がっていた。その鉢植えをいつものカウンターに移動させ、空の木箱の椅子に座って鞄からペンケースを取り出す。
 ペンケースの中には芯の柔らかい鉛筆が数本と消しゴム、それからカッターナイフが入っている。おれは鉛筆を1本とカッターナイフを取り出し、慣れた手つきで鉛筆を削り始めた。
 スケッチ用の鉛筆は、鉛筆削りでは削らない。1本1本カッターナイフを使って芯を長めに削り出す。そうやって鉛筆を削りながら、頭の中にこれから描く絵をイメージし、集中力を高めていくのだ。
 だからいつも描く直前に鉛筆を削る。ちょっと大袈裟に言えば、このときの鉛筆の仕上がり具合がその日の絵のできを左右することもある。それくらい鉛筆を削るという作業は絵を描く者にとって大事なことなのだ。
「うん、今日は上手く削れたぞ」
 削り上がった鉛筆を目の高さに掲げて見つめた。絵はともかく、鉛筆を削る腕は確実に上がっている。
 そのとき突然、バタン、と大きな音がした。
 驚きのあまり、せっかく削った鉛筆を落としそうになった。
 すぐにドアが開いた音だと気づいたおれは、戸口に立っている男を見てもう一度驚いた。
 そこには、雨に濡れた宿禰の姿があった。


                                          text by sakuta



目次へ2へ4へ



水川青弥 「出会い」 4 - 2009.02.18 Wed


「ちょっと雨宿りさせてくれよ」
 こんな寂れた温室に人がいることに驚きもせず、宿禰はそう言った。
 不思議だった。
 普段からこの裏庭は人影が少ない。おそらくここに温室があることを知っている生徒はほとんどいないのではないかと思う。しかも、わざわざ温室の中に足を踏み入れる物好きな人間なんて、おれの知ってる限りでは藤内先生とおれぐらいのものだ。
 この男は裏庭でなにをしていたんだろう。こんな所で雨宿りだなんて。
 返事がないことをたいして気に留めるふうもなく、宿禰は奥にいるおれに近づいてきた。
 おれは思わず身構えた。
「水川はここでなにしてんの?」
 名前を呼ばれてびっくりする。
「おれの名前……」
「ああ、知ってるよ。入学試験を首席で通過した秀才だって有名だもん。俺のことは知ってる?」
 おれは首を横に振った。本当は知っていたけど嘘をついた。
「おかしいな。時々目が合うような気がしてたんだけど」
 見透かされている。おれは手のひらに汗をかき始めた。
「まあ、いいや。俺は文系クラスの宿禰凛一。以後よろしく」
 差し出された手を、おれは握らなかった。
 宿禰はちょっぴり苦笑して、おれの手元を覗き込んできた。
「なに? 水川って絵を描く人なの?」
 身体が触れるか触れないかという距離に宿禰が立つ。おれは全神経でそばにある体温を意識した。けれど、表面的には平静を装う。
「まだ、なにも……」
 鉛筆を削り終えて、これから描こうとしていたときに宿禰が飛び込んできたのだ。スケッチブックはまだ真っ白だった。
 その白い紙に、ぽたりと水滴が落ちた。
 顔を上げると、宿禰の肩まである長い髪から滴ったのだとわかった。
 雨に濡れた宿禰の髪は、まるで烏の羽のように艶やかで複雑な黒色をしていた。見惚れていると、再び髪先から雫が落ちた。
 それに気づいた宿禰が「あっ、悪い」といって身を引いた。
 おれは鞄の中からハンドタオルを取り出し、宿禰に差し出す。
「これで拭けよ」
 一瞬、躊躇したものの、宿禰は礼を言ってハンドタオルを受け取った。そして、隅に避けてあったもうひとつの木箱を持ってきて、少し離れたところに腰を下ろした。ハンドタオルを頭の上に乗せたまま、ろくに拭きもせず両手で制服の胸やズボンのポケットを探る。取り出したのは煙草の箱だった。
 箱を振って煙草の頭が少し飛び出したところを、器用に1本だけ口で咥えて抜く。それからライターに火を点す。この一連の手馴れた動作が、彼が喫煙の常習者だということを物語っていた。
 けれど、この雨で湿気てしまったのか、なかなか煙草に火がつかない。
「畜生っ」
 おれは苛立つ宿禰の指先をじっと見つめていた。長くて形のいい指をしているなと思っていたら、睨まれているのだと勘違いしたらしい宿禰が慌てて煙草をしまった。
「あ、煙草はよくないよな」
 言われておれも思い出す。
「一応、ここで煙草は吸うなって言われてるから」
「誰に?」
「藤内先生」
「……水川って藤内と仲いいの?」
 教師と仲がいいのかなんて、変なことを訊くやつだと思った。
「べつにそういうわけじゃない。たまたまここで顔を合わせただけだ」
「ふうん」
 なにをどう納得したのか、宿禰はそれ以上質問してこなかった。代わりに違うことを訊いてくる。
「なあ、描いてるとこ見てていい?」
 本当はよくなかった。誰かに見られながら絵を描いたことなんて、今まで一度もなかったから、多分、緊張で手が震える。だからといって、見るなと言うのも自意識過剰な感じがして恥ずかしい。
 おれは了承の意味を込めて、宿禰の見ている前でスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。
 心配することはなかった。一旦、絵を描くことに集中してしまえば、宿禰の存在はさほど気にならなかった。いつもの通りに手が動く。葉の1枚1枚、葉脈の1本1本を描きながら、おれは自分の意識が外界から乖離していくのを感じた。それはおれにとって快感に近い感覚だった。
 不意に、首になにかが触れた。
 ぞくりと背筋が震え、おれは反射的に身を引いた。
「なっ、なに?」
 それは宿禰の手だった。
「首、大丈夫だったか?」
 宿禰は手を下ろしながら訊ねた。
「首……?」
 一瞬、なんのことだかわからなかった。
「あんなやつ、適当にはぐらかして逃げればいいのに、水川って頭がいいわりに要領悪いよな」
 おれはようやく、宿禰があの朝の出来事のことを言っているのだと気づいた。ずれてもいない眼鏡に手をやって、彼の視線から逃れる。
「おまえには、関係ない」
 腹を立てたわけではない。やっぱりあのとき宿禰に一部始終を見られていたのだと思うと気まずくて、つい棘のある言い方になってしまう。
「あ、雨あがったみたいだ」
 その声に誘われて外を見ると、すでに雲の切れ間から光が差し込んでいた。
 宿禰は急に立ち上がり、頭に乗せたままだったハンドタオルを手に取った。
「これ、洗濯して返すから」
「いいよ、そんな……」
「いいから。じゃあ、邪魔して悪かったな」
 そう言うなり、宿禰は来たときと同じ唐突さで去っていった。
 おれは閉まったドアを呆然と見つめた。
 妙な男だと思った。
 宿禰と口をきいたのはこれが初めてだった。入学したばかりの頃から彼の存在は知っていたけど、今までこれほど接近したことはなかった。
 それなのに、彼はごく自然におれのテリトリーに侵入してきた。どちらかというとおれはイヤなものはイヤとはっきり言うタイプだけど、なぜだか彼には拒みがたい雰囲気があるというか、するすると入り込まれてしまった。
 迂闊だった。
 気をつけなくちゃいけない。
 ああいう手合いは深入りすると厄介だ。
 それでもしばらくの間、あの黒髪が、あの指が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。
 おれはいつか、あの男を描くかもしれない。
 それは、真夏のアスファルトに出現した逃げ水のように不確かな予感だった。



                                           text by sakuta

目次へ3へ



宿禰凛一 「密やかな恋の始まり」 1 - 2009.02.19 Thu

rinmina6

green house 宿禰凛一編 「密やかな恋の始まり」

1、
 折角気分一新で真面目に学生生活を楽しんでやろうというのに…

 伝統と格式のある聖ヨハネ学院高等学校に、兄貴の鬼のような特訓の成果が実ってなんとか合格した俺は、意気揚々と入学式を楽しみにしていたが、思わぬ事故で欠席しなければならなくなった。
 で、2日ほど入院。
 で、今日無事退院。
 一週間ほどシカゴの大学院に戻った兄貴が、今日帰ってきた。
 俺の様を見てかなりショックらしく、さっきまでは不機嫌だったがやっと気を取り直して、ベッドで休む俺の隣で林檎を剥いている。

「ちょっと目を離した隙にそんな大怪我をこさえるなんて…凛一、あまり俺を驚かすな」
 器用に林檎の皮を繋げたまま剥いている俺の九つ違いの兄、慧一は溜息を零す。
「ごめん。でも仕方なかったんだよ。向こうが中学時代のケリを付けるって聞かねえんだから」
「だからって縫うほどに傷つけることはない。折角ここまで奇跡的に無傷にできたものを。おまえはミテクレはいいんだから、もっと大事にしろ」
「…どうせ、出来のいい兄貴とは違って頭はからっぽですよ。5針縫っただけじゃん。箔が付くってもんだろ。それもこっちは一切手を出さなかったんだから、褒めて欲しいくらいだ」
「ほら、林檎。特別に一個だけウサギにしてやったぞ」
目の前にデザートフォークに突き刺された皮付きの林檎を差し出された。
「…食いにくいじゃねーかよっ!」
「そっか?かわいいのに…」と、慧一はその皮付きウサギを自分の口に入れる。
「美味い」
「良かったね」
食い終わった慧一が、またナイフを持って皮のない林檎を一口サイズに切っていく様を、俺は見つめた。
早く食いたいんだがね…

「だけど、凛…おまえ、5針縫ったぐらいで入学式休んだのか?二日も入院だなんて、何やってたんだ?」
「栄養失調で点滴三昧…3日ほど、マトモに食ってなかった」
「一寸待て…俺、一週間前に大学に戻る時、おまえの食事用にピザ一週間分作ったよな!」
「一週間もピザばっか食ってられるかっ!二日で飽きたし!」
「シーフードにバジル風。マヨネーズ味、イロイロ変えてやったじゃないか」
「…いや、飽きるだろ、普通」
「…折角おまえの為に…もう半年間休学伸ばしたのに…俺、シカゴに帰ろうかな~」
「やだっ!帰らないでくれよ、慧っ」
思わず本気で縋ってしまった。すぐに後悔したけど、遅い。
だって本当に、まだひとりにはなりたくないんだよ…

「…嘘だよ。帰らないよ。約束しただろ?凛をひとりにはさせないって。…そんな顔はするな。凛らしくない」
「…かわいい弟をはめるな」
「そんなに寂しいなら、抱っこして寝てやろうか?」
「ありがたいけどね。遠慮しておく。結構腕が痛いんだよ」
「それは残念だ」
 どこまで本気かわからない慧一の話は半分聞いておく。
 
「ほら、アーンしな」
 一口サイズに切った林檎を唇に突かれ、俺は仕方なさげに口を開けた。
「美味いかい?」
「美味くない」
 そう言って俺はもう一度口を開ける。


 入学式が終わって、一週間経った頃、抜糸して身軽になった俺は、漸く聖ヨハネ学院高校の生徒として校門を潜る事になった。
 門を入って中庭の中央にヨハネ像がある。
 洗礼者ヨハネじゃなく、あの「主が最も愛された弟子」のヨハネの方だ。
 ミッションスクールではキリストを抱くマリア像が一般的なのに珍しい為か、目を引く。
 これがまた妙に良くできた彫像で…片膝を跪き、手を組んで祈りを捧げ見上げるヨハネの視線の先が、この学院のチャペルの尖塔の頂で、この頂点の像がこれまた熾天使ウリエルと言う。
 聖典にも認知されていない大天使がここにおわすとは、この学院を創立した奴は相当変わり者だろう。
「我が光は神なり…か?」
 昇る太陽に反射したウリエルの翼が、目を焼きつくすようだ。


 一年四組の教室に行き、自分の机を探す。
 クラスメイトと思われる方々が、俺の様子を伺いながらも声をかける気もなさそうだ。
 好奇の目で見られることに慣れた俺は、それをシカトしながら、人の良さそうな奴に話しかけた。
「ごめん、ちょっといい?」
「あ?うん」
「俺、怪我で休んでいた宿禰凛一って言うんだけど、悪いが、俺の席を知っていたら、教えて頂けるかな?」
 それはそれは、これ以上のいい人間は居ないという、柔らかな物言いで伺った。
「あ…ああ、宿禰君?」
「そう…ですよ~」
「だったら俺の後ろの席だぜ」
「そう…ですか。ありがとう」
 俺はカバンを机に置いて椅子に座った。
「カバンは後ろの棚に自分の名前があるから、そこに置いて」
「わかった」
「俺は三上敏志。よろしく、宿禰」
 いきなり呼び捨てかよ。と、思ったがまあ新参者は大人しくっと…言う事で、
「よろしくな、三上~」
 ちょっと語尾に力入れたら、三上はオーバーに後ろにたじろいたフリをした。

 机の中を覗くと、なにやら色々と書かれた用紙が出てくる。
「あ、悪い。なんか説明事項やらなんやら一杯あってさ。俺寮住まいだから、家が近いんなら、おまえの 家に持って行って良かったんだけど、個人情報一切教えてくんなくて…あ、担任から連絡あった?」
「いや、ない」
「電話ぐらいしてやりゃいいのにな。あのジーサンボケてんのか。やる気が見えねえ~」
「担任ってなんつーの?」
「神代(くましろ)って言う日本史の先生。定年間近の窓際先生だよ」
「ふーん」
「でもな、副担任がこれが…」
「起立っ!」
 高音の声が教室に響いた。
 俺は、教壇に立つ噂の窓際先生の姿を初めて拝見した。


「なんだ?あの人集り」
 階段の前の踊り場に目をやると、掲示板の前に生徒の山。
「ああ、あれ、多分この間の校内模試の結果じゃないかな。入学式の翌日にあったんだぜ?おまえ、受けなくて儲けたな」
「美味くねえ儲け話」
「上位百番まで張り出されるって聞いたけど。…おい、長谷川」
 群集から抜け出した奴を捕まえて、三上が聞く。確かクラス委員だった…か?
「トップは誰だよ」
「隣のクラスの水川青弥」
「水川か。まあ妥当なところだろうな」
「なんだ?その言い方。そいつそんなに有名人なのか?」当たり前のように吹く三上の言い方が気になって、聴き返してみる。
「宿禰は知らないんだったな。水川青弥。入学式の新入生代表で宣誓した奴だよ。同じ寮生なんで顔も覚えたし…ああ、ほら、あいつだ。あの真ん中の眼鏡っ子」
 目線と顎で教えてくれた先を見る。
 ちょうど隣の三組の教室から出てきた固まりに、ひとり、際立って白い子がいる。
 眼鏡をした生徒は珍しくもなかったが、そいつは妙に目立つ。
 一言で言えば…物憂い優等生…
 翼に傷でもあるのか?裁かれてみたいもんだね…

 …どういうわけか、俺は勘がいい。ここの受験だって殆どヤマ勘で通ったようなもんだ。
 その俺の第六感が教えてくれる。
 こいつは…俺のもんになる。

 廊下に佇む俺達を横切る瞬間、ずっと見つめ続けていたのを気づいたのか水川青弥は、俺を見た。
 俺は眼鏡の奥のたじろぎを見逃さなかった。



目次へ2へ


NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

サイアート

Author:サイアート
イラストと駄文を更新しております。

少年愛を中心としたシリアス重視なオリジナル作品でございます。

ゆっくりしていってね~

サイズを記憶するフォントサイズ変更ボタン

文字を大きくする 文字を規定のサイズに戻す 文字を小さくする

ツリーカテゴリー

Script by Lc-Factory
(詳細:Lc-Factory/雑記)

最新記事

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する