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2009-06

水川青弥 「引力」 2 - 2009.06.30 Tue

 翌日、おれはどんな顔で宿禰と顔を合わせたらいいのか迷った。迷いながら、いつものように温室で宿禰を待っていた。顔を合わせづらいなら待たなければいいのに、宿禰と会えないのはもっと不安なような気がしていた。
 ところが、温室に現れた宿禰は普段とまったく変わらない様子で、一瞬、昨日のことは全部自分が作り出した夢なんじゃないかと疑ったほどだった。
 でも、夢なんかじゃない。
 あのとき土手から落ちてできた擦り傷が、おれの腕と背中にはある。
 そのうちに、何食わぬ顔で今日の出来事をおもしろおかしく話して聞かせる宿禰のまなざしに、おれに対する労わりのようなものを感じ取り、ようやく気づいた。
 宿禰は待ってくれてるんだ。
 臆病なおれが一歩踏み出すのを。
 その瞬間、おれは宿禰の好意に応えたいと思った。その気持ちに嘘はない。
 だけど……。



「みなっち、どうしたの?」
 気づくと、同室の根本先輩がおれの顔を覗き込んでいた。
「手が止まってるよ。ぼんやりしちゃってなんか悩みごと?」
「べつに……」
 おれが視線を逸らすと、根本先輩は空気を読まずに食い下がってきた。
「うっそだぁ。みなっちがテスト勉強も手につかないなんて、よっぽどのことでしょ」
「そういう先輩は勉強しなくていいんですか?」
 ちょっと厭味に言ってやると、先輩は自分のベッドにごろんと寝転がった。
「いまさら勉強したっておつむの中身は変わらないよ。それよりなにを考えてたの?」
「先輩には関係ありませんよ」
 素っ気なく突き放しても先輩はめげない。
「わかった。恋でしょ!」
「な……」
 図星だった。
「なんでわかったのかって? そりゃあ、勉強が手につかなくなるといえば原因は恋煩いって相場は決まってるからね」
 そういえば、と思い出す。
 根本先輩はたしか男の人と付き合っていたはずだ。以前、宿禰とキスしているところを目撃したこともあった。同性と恋愛関係に及ぶことにまったく抵抗がないという点では、宿禰と同じタイプの人間なのかもしれない。先輩は素行にこそ問題はあるけれど、人間的には教師なんかよりよっぽど信用できるような気がしている。
 おれは思い切って訊ねてみた。
「あの……先輩は男の人が好きなんですよね?」
 先輩は両手を頭の下で組んで、天井を見つめたまま歌うように答える。
「そうね~、好きだね~」
「どうして男が好きなんですか?」
「それはぼくに『なんで生きてるんですか?』って訊いてるのと同じだね」
「はあ……」
「ぼくにとっては女の子と恋愛するより、男の人とキスするほうが自然だったってこと」
「なんでそうなのか悩んだことはないんですか?」
「なんでかなんて考えたってしょうがないよ。これがぼくなんだもん」
 それから先輩はちらりとおれを見て続けた。
「……なんてね。本当は悩んだよ。でも、いくら悩んだって普通の男の子みたいには生きられないし、結局はありのままの自分を受け入れるしかないでしょ」
「ありのまま?」
 先輩はおれに向かってにっこりと微笑んだ。
「そう、ありのまま。自分に嘘をつかないで生きる。それができればぼくの人生はオールオッケー」
 おれは鸚鵡のように繰り返した。
「ALL OK……」
「そ。みなっちみたいな真面目な子には難しいかもしれないけどね。でも、どっかで自分を解放してあげないと苦しいでしょ。みなっち、今までちゃんと呼吸できてた? 苦しかったから親元を離れてこの寮に入ったんじゃないの?」
 そうだった。おれはもう長いこと苦しかった。あの家ではもう息ができないと思った。だからヨハネは電車通学圏内の高校にもかかわらず、わずかな通学時間でも無駄にしたくないと両親を説得して実家を出たのだ。
「ここにいる間は楽にしなよ。3年間の期限付きだけど、ここでの3年間を楽しむことができれば、その先の人生も変わってくると思うよ。とくにみなっちみたいな子はね」
 先輩は勢いよく身体を起こした。
「なんてね。ぼくに説教なんかされたくないか。勉強の邪魔しちゃったね。お邪魔虫のぼくはダーリンのとこにでも行ってこようかな~」
 そう言うと、先輩は鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。
 ひとり残されたおれは先輩の言葉を反芻する。
「自分に嘘をつかない」
 どうやらそれが楽に呼吸をするための秘訣らしい。
 自分に嘘をつかずに、正直に、この期限付きの自由を謳歌する。
 それができれば自分は変われるような気がした。
 そもそも、そんなふうに前向きに考えられるようになったということは、自分はすでに変わり始めているということかもしれない。以前の自分なら考えられないことだ。
「やっぱり宿禰の影響かな」
 おれは自由になれる。
 そのためにも、今はまず自分のやるべきことをやろう。
 迷いの吹っ切れたおれは、再びシャーペンを握って数学の練習問題に向き合った。


                                                text by sakuta



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「彼方の海より…」メトネ日記第二章 - 2009.06.30 Tue

彼方の海にて…メトネ日記第二章

1.
魔族の者というのは、放埓というか…恥じらいというものが皆無だ。
それからプライベートという極めてデリケートな部分を隠すという事をしないらしい。
大体、この邸の個々の部屋には扉がない。
開けたり閉めたりする手間が要らずに楽と言うが、どこか常識が可笑しいんじゃないだろうか。

リュウが私を抱いている時に、彼の軍師とも言えるラシュマーが平気で現れて、仕事の予定を報告するのには驚いた。
リュウもリュウで動きながら「わかった」と、返事を返す。
私はもう…恥ずかしさで死んでしまうと思った事はキリがないが、これは酷すぎると思った。
「あ、あなた方はこういう格好で…他の人に見られて恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいとか…そういう風に思うのがおかしいだろう。別にこうやって交わっていることが悪いことか?」
「そうじゃなくて…」
「人間というのは変なところを秘密にするから、信用ならない…まあ、俺も転生する前は人間だったからわからんでもないが…」
「人間だったの?」
「まあね。それよりメトネ…おまえいい具合に上手くなったじゃねえか」
「…そういう事を言うのが、嫌なんだ!」
「褒めてやってんのに…おまえみたいなのがツンデレというのか?」
「なんの話ですかっ!もういいから離れてくださいっ!」
やっとの事で、リュウの身体から逃れた私は痛む身体をおして床に散らばった服を急いで掻き集めた。
リュウはというと一子纏わぬままに部屋から出て行った。
…いくら魔界の常識でも、私は死んでも真似などすまいと誓って、その後姿を見送った。

私がここ魔界の長であるリュウ・エリアードの邸に住むようになってひと月が過ぎた。
何をするでもなく、ただリュウの閨の相手でしかなく、自分の価値は一体どこにあるのかさえ見つけられないまま過ぎていく毎日。
なんにしても私は非力過ぎて、役に立つ仕事など与えてもらえず、もし仕事があったとしても、何の取り柄も無い人間では何一つ彼らに敵うものなどない。
私はただリュウに抱かれて、そして飽きられるのを待つだけでいいのだろうか。

リュウは本当に忙しい魔者で、一日たりとも休む間もなく、邸から出て行く。
魔界は広くまだ色々な災いが多く、それを鎮圧、平定する為には、多くの戦いと統制力がいると言う。
地上での覇権争いの如く、この魔界もまだ安定には時間が必要だというのだ。
しかし、いずれリュウ・エリアードがこの魔界を統制するというのが、大方の賢者の予見だと言う。

そういう男と先ほどまであんな破廉恥をしていた事実に、恐れと羞恥で、またもやひどい動悸と火照りを感じ、何度繰り返せば慣れるんだと我ながら呆れかえった。




    ryuu1


■「彼方の海より…」  リュウ・エリアードとメトネのお話はここから
プロローグ
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久しぶりの「メトネ日記」は相変わらずです。
慧一の話があんまり暗いからこういうBLっぽいのもたまには出していこうか。と、言っても、メトネはたまにしか日記書けません。リュウの相手で忙しい(^◇^)

イラストは…面倒になって服着せなかった~www



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水川青弥 「引力」 1 - 2009.06.29 Mon

rinmina6

 一度は断ったものの、相変わらずもう一歩踏み出すことができないまま宿禰との逢瀬は続いている。
 多分、おれは宿禰とは友だちでいられればそれでよかったんだと思う。
 けれど宿禰は違う。おれとキスしたり抱き合ったりしたいと言う。
 それが叶わないならおれを傷つけるまえに身を引くという彼の身勝手な言い分が、腹立たしくて、悲しかった。
 なぜ悲しかったのか、自分でもわかっている。
 だから宿禰の気持ちを受け入れることにした。
 まだ「好き」とは言えないけれど、これが今のおれの精一杯だった。
 こういうのも付き合ってるうちに入るのだろうか。
 おれは宿禰とどうなりたいんだろう。
 そんなことを考えているうちに、宿禰にデートに誘われた。


 日曜日、どこでもおれの好きなところへ行こうというので、おれたちは電車に乗って海へ出かけた。映画館や水族館などごみごみとした屋内で過ごすより、大きな海を見たいと思った。
 夏の海水浴シーズンを過ぎ、さすがに海に入る者はいなくなったが、それでも浜辺にはカップルらしき男女の姿がたくさんあった。……というよりカップルだらけだった。
 そんな中を男同士で歩いている自分たちは、他人の目には一体どんなふうに映っているのだろう。
 考えるまでもなく、友だち同士に見えているに違いない。
 そうは思っても、なんとなく気分が落ち着かない。無意識のうちに宿禰との距離を測ってしまう。
 そんな自分をつまらない人間だと思う。
 きっと宿禰だって物足りないと感じているはずだ。
 学園でまことしやかに囁かれている宿禰の噂を耳にして、ますますそう思うようになった。
 その噂を丸々信じているわけではないけど、火のないところに煙は立たない。少なくとも宿禰は平凡なおれなんかとは別の世界に生きてきた人間だということは確かだろう。
 今は普通の人間が物珍しいだけで、そのうちおれにも厭きるに決まっている。
 宿禰を信用していないというよりも、自分にそれだけの魅力があるとは思えなかった。
 ……いや、やっぱり宿禰を信用していないのかもしれない。
 レストランでランチを食べてから海辺に出ると、おれたちは土手に座って海を眺めた。
 不意に宿禰が訊ねてきた。
「なにか聞いた?」
「え?」
「俺の噂話とか」
「……いや……うん、少し」
 思わず言葉が淀んでしまった。
「どんな?」
 おれは答えられなかった。
 すると宿禰は穏やかに言った。
「なにか聞きたいことある? 噂話なんて大概尾ひれがついてるだろうし……どんな話になってるんだか、肝心の本人もよく把握できてないんだ。ミナが聞きたいことがあるなら、俺正直に言うよ」
 その言葉はうれしかったし、気にならないといえば嘘になる。でも、それ以上に本当のことを聞くのが怖かった。
「べつに……宿禰がなにをしてきたかなんて、おれには関係ないことだから……」
「関係あると思うぜ」
 おれは宿禰の顔を見つめた。
「少なくともさ、ミナは俺と付き合ってくれてるじゃん。おれという人間に興味あるんだろ? じゃあ、どういうふうに育ってきたのかとか、そういうの知りたくない?」
「だって、ここにいる宿禰が今の宿禰だろ? それ以外に知る必要があるのか?
「まあ、正解だね。俺も今のミナが好きだから、過去は一切関係ないんだと思う。でもね、知るということと知りたいと思うことは違うのさ。本当に好きなら……俺もミナのすべてが知りたいと思うよ、きっと」
 宿禰の言うことはわかる。
 おれにもいつか、宿禰のすべてを知りたいと思える日がくるのだろうか。
 そんな思いに耽っていると、唐突に宿禰が提案した。
「キスしようか、ミナ」
 おれは驚いて聞き返した。
「今の俺たちが過去になる瞬間を認めつつさ、お互いを知る瞬間を心に留めておく……結構ロマンチックだろ?」
「記憶に留めるためにキスをするのか?」
「記憶に留まるかどうかを確かめるためにキスをするの。どう?」
「どうって……」
 悩んでいると、宿禰の顔が間近に迫ってきた。
「うわぁ!」
 反射的に仰け反ったおれはバランスを崩した。それを支えようとした宿禰もろとも土手から落ちる。
「い、てえ!」
 背中の痛みに顔をしかめながら起き上がり、ずれた眼鏡を直す。
「おい、大丈夫か? っつうか、おまえはいっつも肝心な時に何て声出すんだよ!」
「だ、だって、お、おまえ急に……」
「いや急じゃない、ちゃんとそういう話してから襲ったろ?」
 襲うという単語があまりにも露骨で、思わず顔が熱くなる。
「お、襲うな!おれは慣れてないんだ」
「じゃあ慣れろ。俺も充分おまえに合わせてやってんだから、つべこべゆうな。べっつにいいじゃん、キスくらい。欧米では挨拶だろーよ」
 その感覚はおれにはわからなかった。ここは日本だし、そういう宿禰のデリカシーのなさがいやだった。それこそ彼がどんなふうに育ってきたかわかるというものだ。
「もうおれ、帰る」
 おれは駅に向かって歩き出した。




                                               text by sakuta



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宿禰慧一 「イリュミナシオン」 3 - 2009.06.28 Sun

3.
母の一周忌が過ぎた頃、父のロンドンへの転勤が決まった。
家族全員で一緒に行くか意見を求められた。
俺と梓は話し合った上、この家に残ることを選んだ。
父は俺たちふたりで凛一を育てるのは無理だと、母の姉である伯母に凛一の養育を頼んだが、俺たちは猛反対した。
今更凛一を他の誰かに預けるなんて、出来るはずも無い。
まさにあれは俺たちにとって、珠玉の宝であり、あれなしでは生きている価値を見失ってしまう…そう思い始めていた。
それは肉親への深い愛情であり、真の慈しみであり、利己や打算など一片も無い。
少なくとも梓の方には曇らすものなどないだろう。
だが俺はどうだ。
凛一を独占したいという想い、支配しようとする圧力…
そしてわだかまる抑圧された感情。
光の影に潜む猥雑な欲情が覗き見する。

凛一は俺たちに良くキスをした。
それは母親の残した愛のある性癖でもあった。
キスは信頼と安心の印であり、凛一にとっては自然の行為だった。
凛一の上唇は富士の形を描き、その下にはそれを移す湖が艶めいている。媚びているわけでもないのに、どうしたらそんな魅惑的な顔ができるのだろう。
意識下で俺を誘っているのか?そんな妄想に囚われてしまうほどに、凛一はかわいいのだ。
その口唇が俺に触れる。
暫くの陶酔の後、やわらかい口唇から忍び込む凛一の舌が俺のソレと絡むと、凛一は掬い取るように離す。
そして保護欲をそそる満面の笑みで「慧、大好き」と言うのだ。
誰がこの子の無垢なる媚態に勝てようか。

同じように梓も凛一の誘惑には参ってしまったようだ。
凛一にお小言ばかりを言うくせに、キスのおねだりには勝てない。
同じようにキスの挨拶を受けるたび、梓の顔も陶酔と困惑の入り混じった顔で、瞳を宙に浮かせていた。
俺たちは凛一に良く言い聞かせた。
キスをするのは俺たちだけにしなさい、と。
こんな甘い蜜のような感覚は、ふたりだけの特権にしなければならない。

凛一は人見知りもあまりしない為、家を出ると誰彼に対しても、気前よく愛想を振りまく。
当然その愛らしさから、大方の人は幸いの笑みを返し、何かと良くしてくれる。
田舎から送ってきたからと珍しい果物やお菓子は当たり前で、上等の服や靴、宝石までもこの幼子にやろうとするのだから、こっちもたまったもんじゃない。
またもや凛一に言い聞かせなきゃならない。
知らない人に笑いかけちゃ駄目。話をしてもついて行ってもいけない。変なことをされそうになったら大声で叫ぶこと。
バカみたいに何度も繰り返し、俺と梓は世の親バカどもの気持ちが嫌になるくらい判る気がした。
もしも凛一が世の中の悪の部分に犯されたら…と、思うと、居ても立ってもいられない。
とうとう凛一を自分も習っていた空手と古武術に連れて行き、自分の身は自分で守るよう、鍛錬させることにした。

かわいい凛一は育つにつれ、かわいさよりも整ったあでやかな美しさという容貌になり、俺はまたそれに頭を抱えた。


凛一の塵ひとつない真っ向から迫る信頼と愛情の行為に、俺は年を追うごとに恐れを為していた。
ただの肉親の愛情表現だから、それを受け止める俺自身が慌てる必要もない。
母親だったら凛一の行為になにを恐れ戦く必要があろうものか。
しかし俺は…凛一に肉親以上の感情を常に抱いていて、それが消え去ることもなく、また消すことも逃げることすら出来ないままで、凛一の傍にいるのだ。
どれだけの忍耐力を必要としたと思う。
考えただけでマゾヒストになれる。

弟じゃなかったらどれだけ救われたか…俺は一時期この妄想に囚われ、自分が貰い子であればいいだとか、両親のどちらかが凛一とは違っていたらだとか、少しでも肉親の縁から離れられる手立てを考えていた。
実際区役所の戸籍まで確かめに行ったのだから、藁にも縋る心持ちとはこういう事なのだろう。

なぜ凛一なのか。
なぜこの想いが凛一にしか向けられないのか。
これはもう妄執ではないのか。
なにかの呪いじゃないのか…
俺は何かが間違って産まれてしまったのか…
これは本当に欲情なのか?
情欲とは愛情の本質ではないのか?
凛一を欲しいと願うのは裏を返せば、真実の愛と言えないだろうか…

それともこの猥雑な欲望は、時が来れば、ああ、あれはただの悪い夢だったと笑えるものになるのだろうか…

俺は決して自虐的体質ではないが、凛一への邪まとも思える妄執にとりつかれると、その恐ろしさに身体の底から震える時があった。
いつか、俺の箍が外れこの純真な弟を汚してしまうかもしれない。
俺はその妄執が頭を横切る度、真正面から俺を見つめる凛一の視線から目を逸らし、見まいとした。
しかし、目蓋を閉じても凛一の輝きは網膜を焦がすほどに眩しくて怯まない。
俺はとうとう自分のこの嗜好を認めざる負えなくなった。


クリスマス聖母39



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宿禰凛一の過去話「追想」の初めはこちら 


宿禰慧一 「イリュミナシオン」 2 - 2009.06.26 Fri

2.
母は身体の弱い人だったが、豊かな感性の持ち主で、梓はその性質を母から受け継いでいた。思った事を躊躇いもなく、言葉にする。夢見がちでありながら、現実主義でもある。
母と梓は言葉なくても理解し合える師弟のように、仲が良かった。
俺は傍でみて、随分羨ましがったものだ。

俺は、母が凛一を胸に抱き、傍らに跪く梓を見ながら、ルネサンスの聖母子像を思い浮かべた。
完璧な三角形の図がそこにはあった。
平和と家族愛…それは紛れもなく正しい秩序となる。
俺はそれを眺めてはこの上もなく、満ち足りた気持ちになった。

女同士というものはああいう風に分かち合えるのか。じゃあ、俺と父親はどうだ?
…なにもない。憎みあうものも無ければ、なにひとつ分かち合えるものもない。
父親とはこういう縁であると諦め、せめてもうひとりの同性である凛一には、相当の信頼を分かち合おう。
俺は強く願った。

俺は両親への想いと梓との関係、そして凛一に対する愛情の質が全く違っていることを、凛一の誕生で知った。
多分それは兄弟という縁でむすばれた感情であろうと信じていた。
だがそれも凛一が成長していくにつれ、少しずつ変わっていることに気づき始めていた。

きっかけは母の死だった。

母の存在は偉大だったといえよう。
それからの俺のマトモとは言えない感情を、母は少なくとも俺自身に判らせぬように鍵を掛けていたのだから。
母は知っていた。少なくとも俺が凛一に対してどんな想いで見つめているのかを。
その上で言うのだ。
「母さまはもうすぐ居なくなってしまうけれど、慧一は悲しまずにいてね。そして、凛一を守ってちょうだい。あの子を光に導くのはあなたにしか出来ないから」
その意味をすぐには理解できなかった。
母は俺に何を見たのだろう。俺には暗い闇しか見えていないというのに…
俺にこの無垢な弟を押し付けて…どうしろと言うんだ。


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「片方の魂が居なくなってしまったわ。もう母さま以上に同じ色合いの魂には出会えないわね」
棺に眠る母を見つめ、梓が泣きじゃくる。
5才になったばかりの凛一は泣くでもなく、ただ黙って俺の喪服の裾を握り締めたまま身体ごと凭れかかる。
母が気に入っていた艶のある長い黒髪の所為で、凛一は喪服を着た日本人形のようだ。
「凛、お母さまとお別れするといいよ。ほら、抱っこしてあげるから」
「…お母さまは…こんな狭いベッドで眠っているの?」
「凛…お母さまは眠り姫になっちゃたのよ。もう千年しないと目覚めないわよ」
梓が泣き笑いながら言う。
「じゃあ、僕の方が早く死んじゃうね。キスで起こせないよ」
俺も梓も驚いた。「死」の概念は理解できていても目の前の母の姿にそれを当てはめられないのか…それともそれもわかって言っているんだろうか…
すぐに後者だと悟った。
「お母さまは天国で僕を見守ってくれるのでしょ?じゃあ、今までと同じじゃない。寂しくないよ、僕。慧も梓もいるからね」
俺と梓は顔を見合わせた。
屈託のない笑みで笑う凛一に何の罪があろうか。
回りの者は、その意味もわからないままに、あどけない凛一を哀れんで泣いていた。

母が亡くなってから、傍目には何も変わらないと思っていたが、今まで病気知らずの凛一は体調を壊すことが多くなった。
熱を出したり、食事を取らなくなったりするので、病院に連れて行くが、医師は精神的なものだろうとしか判断しなかった。
父と俺たちは、昼間は家政婦さんとふたりでいる凛一に幼稚園に行くように勧めたが、凛一本人がそれを嫌がった。
「僕、おうちで慧と梓を待ってるから、早く帰ってきてね」と、泣きそうな顔で言われたら、俺も梓も無理強いは出来なかった。
学校から帰ると、凛一は広い庭でひとりブランコに乗ったり、砂場で遊んではいたが、その姿は寂しげで、帰宅した俺の姿を見ると、走り寄って抱きついてくる。そのくせ「寂しかった?」と、言うとかぶりを振るのだ。
素直じゃない様もいじらしく、抱きついた凛一の黒髪を撫でてやっていると、「源氏の君が紫の姫君を愛でられた心地がわかるんじゃない?兄様には」と、横で梓が素っ気無く言う。

或る夜、凛一の隣で添い寝をしていると、急に凛一が起きて、「怖い」と泣く。
怖い夢でも見たのかと問うと、「ちがう、あそこに怖いのがいるの」と、部屋の隅を指差す。
暗闇に目を凝らして見るが、何も見えない。
「何もいないよ、凛」
「ううん、いるの。僕を連れて行くってゆうの」と、しくしくと泣く。
俺は思った。
ああ、アレだ。シューベルトの魔王じゃないか。
「大丈夫だよ、凛、俺がいるだろ?」
「だって…怖いもん」
身体毎すべてを預けて俺にしがみつく凛一の身体は震えていた。
あの親父はどうやって最愛の吾が子を喪った?
…間違ってはいけない。
あの親父のように何も気づかないバカに成り下がる気はない。
魔王だろうと、死神だろうと渡さない。
これは俺のものだ。誰にも指一本触れさせるものかっ。
俺は凛一の指差す一点を見つめ、全身全霊を向け言い放った。
「去れっ!」と。

俺の声に、身の内で脅えていた凛一の体が一瞬だけわなないた。
凛一がゆっくりと顔を上げ、そこを見る。
「どう?まだ見える?」
「…ううん、もう、いないみたい」凛一はほっとした顔をして俺を見つめた。
「慧はすごいね」
心服した面持ちで俺に笑いかける凛一をこれ以上愛おしいと思ったことはない。
俺は勝ったと思った。
凛一を襲う悪夢にも、凛一自身にも…
俺は凛一を支配できる。王にさえなれると思った。

しかし、その企みは凛一の次の言葉にあっさり覆される。
「慧は僕の騎士(ナイト)だね」
「…そう、なの?」
「そうなの」
呆れるほど簡単に王から臣下へと急降下だ。思わず苦笑いに口が歪んだ。
「じゃあ、梓は?女王様かな?」
「梓は乳母役だよ、僕のお世話係だもん」
「それじゃあ、凛は王様か王子様なのかい?」
「ううん、僕はね、お城なの。みんなを守ってあげて、お家に入れてあげて、それで攻めてきてもてっぺきの壁で、みんなを守るの。すごくがんじょうできれいなお城なんだ。すごく高くてね~てっぺんからは世界中がみわたせるんだよ」
「…それ、梓から教えてもらったの?」
「ううん、自分で考えたの。大きくなったら今度は僕がこわいのから慧を守ってあげるからね」
「うん…そうだね、凛はお城だから…俺を…救ってくれるね」
その晩、俺は小さな凛一をしっかりと抱きしめたまま一寸も離さなかった。

俺は時折凛一の背中に虹色のツバサを見る。
六枚の玉虫色に輝く羽は、光に溶けるようだ。
そして影に入る瞬間、発光するように輝きを増す。
「慧っ!」
喜色満面に湛えた凛一が、俺の名を呼びながら、胸に飛び込んでくる。
俺はその虹色のツバサが眩しくて目を閉じる。
身体に受けた凛一の重みを感じ、ゆっくりと目を開けると、そのツバサは夢幻のように消え去るのだ。




text by saiart


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宿禰凛一の過去話「追想」の初めはこちら 



宿禰慧一 「イリュミナシオン」 1 - 2009.06.24 Wed

宿禰慧一 「イリュミナシオン」
keirin7


1.
 世をいつわりの 黒染めの 
 僧衣の袖に 狂おしの 
 恋慕のほむら おしかくし…


 寒の戻りが長引いて、桜の花は四月半ばになっても満開の姿を留めていた。
 病院の待合室の開け放たれた窓から、ゆるい風に舞い落ちる桜の花びらに目を奪われながら、遠くから聞こえる赤ん坊の泣く合唱を快く耳にしていた俺は、ひときわ高く泣く声に思わず立ち上がった。
 弟、凛一の誕生の声を聞いた瞬間だ。
 小学三年の春だった。

 硝子越しに並べられた小さなベッドのひとつに寝かされた赤ん坊を、ひとつ年下の妹、梓と並んで見つめていた。
 2800グラムと小さめではあったが、元気なベビーだった。
 宿禰葵と書かれたカードのベッドに眠る小さな凛一は、この世に産まれたばかりの無垢な燐光を放っていた。

「赤ん坊とはよく言ったもんだわね。まさにコザルだわ。あ、泣くと益々おさるさん」
 梓が屈託なく言う。
 産まれたばかりだから仕方ないだろうと言う前に、又、口を開く。
「でも、自分と血の繋がった弟だと思うと、どんなサルでもこの上なくかわいくてたまらないわ。これが肉親の愛情っていうわけね、慧兄さん」と、満面の笑みを湛えて梓が俺を見る。
俺も同じように感じていると応え、
「彼は僕達に与えられた天の賜だよ、きっと」
「あら、慧兄さまにしては夢見がちなことを言うのね」
「だって、あれは…まさに光の象徴だよ。そこに居るだけで、僕達の心までも清浄にする力に溢れている」
「そうね、きっとあの子は私達を約束の地に導いてくれるわ」
「約束の地?」
「そう、人々が求めてやまない幸福の地よ」
「一緒に行けるといいね」
 俺は梓に微笑んだ。
「きっと、行けるわ」
 梓も俺に笑いかけた。
 真っ赤な顔で泣いている凛一は、俺達の思惑など知ったことではないだろう。


 母は元来身体の弱い性質で、今回のお産も危険だからと医者にも強く止められたが、父や周囲の反対を押し切って凛一を産むことを決めたらしいのだ。
 俺と梓は母が亡くなってから、その話を聞いたのだが、命を賭してまで産んでくれた凛一であるなら、殊更に大事に育てようと心に誓ったものだった。

 あまり家事をすることが出来ない母の代わりにハウスキーパーが家事全般を請け負い、母はもっぱら凛一の世話にかかりっきりになっていた。
 しかし、母には充分な休養が必要だということで、夜の凛一の世話は俺と梓の係りになった。
 どこの小学生に両親が揃っているのに赤ん坊の世話をやらせる親がいる、と思ったが、父は出来るだけ家族の手で凛一を育てようと、些か勝手なことを言い張るので、俺達も渋々承知したというわけだ。

 凛一はあまり病気もしない丈夫な子だったが、夜泣きだけは何故か毎晩のように続くので、昼間、真面目な小学生をやっている俺と梓は、慣れるまでが大変だった。
 泣きだすと止まらない凛一を抱っこしては、手の空いた方がミルクを作って飲ませたり、オムツを替えたり。
 ぐずる凛一を抱っこしたまま二時間以上も部屋の中をうろついたり、ひどい時は目が冴えて眠ろうとしない凛一を一晩中あやしたこともある。

 ベビーシッターを頼んでくれと両親に言えば良かったのだが、いつしか梓も俺も、夜に仰せつかる凛一の世話が面白くなってしまっていたんだ。
 すべては凛一の可愛さの所為なんだが、あの頃は学校が終わると一目散に帰宅し、母の傍にいる凛一の姿を飽きもせずに、始終見つめていた。

 サルみたいだと言った梓の言葉は一体何だったのだろう。
 人間とはこんなに美しい生き物としてこの世に存在しえるのだろうか…
 俺は純粋な「美」を凛一の中に見いだしていた。

 凛一は見事に美しかったのだ。
 その容姿も魂も…
 すべてが俺を魅了してやまなかった。









2へ
宿禰凛一の過去話「追想」の初めはこちら 




宿禰凛一 「追想」 21 - 2009.06.10 Wed

21.
「凛一、お客様だよ。リビングに来なさい」
 俺はあれから引きこもり気味になり、外へは出かけていない。
 夏休みも終わろうとしていた。

 リビングに行くと思ってもみない来客だった。
「嶌谷さん!」
「凛一…」
「ゆっくりしていってもらいなさい。俺は部屋にいるから」
 そう言って慧一は出て行った。
「どうして俺ん家がわかったの?」
「おまえが行方不明になったりするから、お兄さんが心配して店を訪ねて来られてね。知り合いになったというわけ」
「…そう…ごめんね、嶌谷さんにも心配かけてしまったね」
「ガキのくせに、そういう口の聞き方するな…と、言っても、教えたのは俺たち大人の所為なんだろうけど…色々大変だったな、凛一」
「俺がちゃんと嶌谷さんの言う事を聞いて、月村さんに近づかなきゃ…良かったんだよね、きっと…」
「なあ、何が良かったなんて、したことを悔いるのは野暮のすることだ。凛一はそこに向かいたくて自分の意思で選んだんだから、それは間違いじゃないさ。後はその経験をおまえがどう受け止めるか…だろう」
「俺…もうどうだっていいよ。月村さんを死なせたのは俺の所為だ。自殺であれ、いずれ病気で死ぬことになったとしても、あそこで死んだのは俺の所為なんだ…」
「バカだね~凛一は」
「え?」
「おまえは本当に天使にでもなったつもりなのか?おまえに月村さんの意思を変える力があるもんか。あの人は最初からああいう風に死のうと決めていた。おまえが傍にいてくれるとは思わなかっただろうけどね。まあ、自殺を容認する気はないけど、それを決めた人を卑下する気も俺はないよ。あの人は思いどうりに自己を全うした…それでしかない。凛一は自分の道を歩くんだよ。月村さんはおまえに色んなものを与えてくれただろう?」
「…」
「あの人はおまえを知って、幸せそうだった。あの頑なな人がさ、誰にも心を開かない人がさ、俺にゆったんだぜ?凛一を見ると生きている喜びを知る…って。おまえは救っていたんだよ、あの人を」

 嶌谷さんの言葉が本当かどうかはわからないけど、俺を慰める気だったら、充分過ぎる。
 俺は黙ったまま涙した。

 俺は帰る嶌谷さんを門まで送った。
「嶌谷さん、もう店には行かないから」
 嶌谷さんは少し寂しげにしたが、すぐに微笑んでくれた。
「そうだね、凛一には同年代の子たちと過ごす時間が必要だと思う。それに…凛一には慧一君がいる。おまえを必死に守ろうとする人がいる。幸せなことだと思っていい」
 そう言い残していった嶌谷さんの背中を見送った。

 玄関に戻ると慧一が俺を待っていた。
「嶌谷さんは俺たちの親父よりよっぽど父親らしい人だね。あんないい人に巡り会えたんじゃ、凛一の夜遊びを頭ごなしに叱るわけにもいかないね」
 すべてを赦すような慧一の姿に俺は…たまらなくて、切なくて…
「慧…」
 俺はどうしようもなくなって、慧一に走り寄りその胸に飛び込んだ。
 堰きとめられたものが壊れていく。
 俺はもう我慢ならない。自分なんかどうなってもいい…
「もう嫌だ!全部捨ててやる!知るもんか!学校も勉強も友達も…嶌谷さん達だって、もう俺にはいらない。慧一がいればいい。俺はなにも見たくないし、知りたくもない…」
 何も考えたくない。
 俺の生きてきたすべてを全部消してしまいたい。
 俺は慧一にすがりついて号泣した。
 慧一のシャツは俺の涙でびしょ濡れになり、終いには慧一の肌の色が透き通って見える程になった。
 泣きじゃくる俺を、慧一はしっかりと抱き留めてくれている。

 少し落ちつくと、俺の髪を撫でながら慧一は穏やかに言うんだ。
「凛一は背が伸びたね。去年までは俺の肩程にしかなかったのに、もうこんなに追いついた。今に追い越されてしまいそうだ」
「…そう、かな…」180以上もある慧一を簡単に追い越せはしないと思うんだけど…
 慧一は言葉を続けた。
「今日の凛一は明日には変わっているって事。おまえが学ばなきゃならないことが世間には沢山あるよ。凛一は色々なことを知るんだ。夢は決めた?勉強して友人たちと語らい、恋をしなきゃな。あらゆるところに行って歴史や自然に感銘を受けてさ、喜びとする。
そして俺はおまえの家になるんだよ。いつだって戻れる場所がある。俺も凛一が俺の家であり宝なんだからね。お互いを大事にしていこうよ。どっちにしても俺たちは兄弟だ。どちらかが死ぬまでそれは変わらない。…ね、俺はおまえが弟で良かったって思っている」
「俺だって…」
「…俺と梓がおまえを天使って呼んだのは、おまえがあんまり天使みたいにかわいかったからなんだけど…天からの贈り物だと思ってね。でも、間違っていたね。おまえは使わされるものじゃなかった。おまえは生まれた時から、宿禰凛一でしかなかったんだよ」
「…」
「凛一は凛一のままで生きてくれないか?俺は宿禰慧一としておまえの傍にいる。これが俺の幸せだからだ。それを選ばせてくれないか?おまえを愛することを…」
「慧…俺も…慧を愛してるよ」

 俺はまた歩き始めた。
「宿禰凛一」の歩みはこれからもずっと続いていくんだ。
 俺は俺でしか存在できやしない。




ターミナルの待合室の俺に気づいた慧一が、小さめのトランクをひとつぶら下げ、手を振りながら近寄って来る。
「凛一」
「慧、おかえり」
「すっかり待たせてしまったね」
「仕方が無いよ。パイロットに文句を言っても天候の所為にされるのは決まりきっている」
「…」
「何?」
「いや、凛一に出迎えられるっていうのがね…こんなに嬉しいもんなんだなってしみじみ感じてしまう」
「…慧」
「どした?」
「いや、慧一を待っている間、なんだか色々思い出してたの。そんで…ちょっとセンチメンタルなわけ」
「…追想…ってやつだ。だけど思い出を偲ぶのは、凛にはまだ早い。もう少し大人になってからだ」
「慧は相変わらず俺を子ども扱いするね。でもついでだから甘えされてくれる?ハグさせてくれよ。お帰りなさいの歓迎も込めて」
慧一は何も言わず、俺を抱きしめた。

ここに無上の愛がある。
俺と慧一にしか通じない想いがある。
慈しみあう愛だ。

俺はこの先何があってもこの手を離すことはない。
慧一が俺を離さぬように…


俺はいつだって愛を欲しがった。
満ち足りた愛の中にいるとは気づかずに…



「追想」完



text by saiart
keirin4



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慧一の話は  早春散歩1よりどうぞ~
「追想」の初めはこちら 
慧一の過去話「イリュミナシオン」はこちらです。
「Swingby」はこちら 1へ

宿禰凛一 「追想」 20 - 2009.06.10 Wed

20.
 夏休みも中盤に入る。
 月村さんの身体の痛みは日増しに酷くなるばかりだ。
 特に左腕の肘の関節が痛むらしい。しきりに腕を切ってしまいたいと叫ぶ。
 いっそのこと医者に診て貰った方が、本人が楽なんじゃないかと勧めるが、月村さんは頑として聞く耳は持たない。
 そのくせ俺に救いを求める。
「凛一、救ってくれ。頼むから…」と、俺の足元で懇願する。
 俺に何が出来る?…こっちが聞きたいぐらいだ。

 俺はその晩、月村さんに絞め殺される夢を見た。

 明くる日、月村さんは気分がいいからとひとりで買い物に出かけた。
 夕刻に戻ると「凛一、今日は気分がいいからステーキだ。ワインも買ってきたし、豪勢なディナーにしよう」と、鼻歌交りでキッチンに立つ。
 その割に折角の高い肉には手を付けないで、ワインばかりを口にする月村さんに文句を言いつつも、機嫌のいい月村さんは久しぶりだから、こちらもつい飲み過ぎて酔いが回って、いらぬことを口にする。

「まるで最後の晩餐のごとく…だね、月村さん」
「今日は安息日でもないだろうがね」
「月村さんはキリスト役でもするといいよ。受難が似合いそうだ」
「俺に似合いなのは裏切り者のユダだろう。凛一こそ、すべての罪を担う救世主になれるぞ」
「ユダは…キリストを愛しすぎた。他の弟子よりも遥かに人間らしい愛でキリストを縛りつけたかった…確かに月村さんらしい。嫉妬と独占欲は人間の根源でもあるよね」
「…君は何を教わってきたんだ?よくそんな捻じ曲がった理屈を考えるなあ」
「ちょいと育った環境が人様とは違うんですよ…それにしても…飲み過ぎたのかなあ…俺、眠い…」
 さっきから欠伸が止まらないでいる俺を見かねて、月村さんは何故か不安そうに見守っている。
「…先にベッドで休みなさい。後片付けはしておくから」
「いいの?…じゃあ、お先に…」
「おやすみ、凛一」
 まぶたが重くて仕方が無いまま、俺は寝室に向かった。
 手を振る月村さんの笑顔に見送られながら。

 いつものように裸になって、ベッドの毛布に潜り込んだ。
 まどろんだ中、遠くから月村さんのピアノが幻想のように聞こえてきた。
 「Alone again」…月村さんはよくこの曲を弾いてくれる。
 梓から教えてもらった曲は、今や俺と月村さんのものになったんだね。

 Who if He really does exist
 Why did He desert me?
 In my hour of need
 I truly am indeed
 Alone again, naturally…



 目が覚めた時、俺の目に映ったのは見慣れない真っ白な天井だった。
 次に目に映ったのは慧一の顔。
「凛…」
「…け、い…ここ、どこ?」
 まだ何か頭に靄がかかったようにはっきりしない。
「病院だよ」
「…どうしたの?」
 何が何だかわからない。どこも痛くも痒くもないのになんで病院にいるんだよ。
「おまえは、睡眠薬で眠っていたんだよ」
 睡眠…薬?
「…慧、泣いてるの?」
 俺は慧一の顔が涙でぼろぼろに濡れているのが不思議で仕方なかった。
「どうして?…」
 一体なにが起こったというのだろう…頭の隅から少しずつだが、見えないものが見えてくる気がした。
「慧…何か、なにがあったんだよ」
「何も…何もない。おまえが…帰っ…」
 慧は言葉をつまらせ、両手を伸ばし俺の身体を抱きしめた。
「二度と…おまえを放さないから!おまえが逃げても追いかける。凛一の傍から絶対に離れない…誓う。だから…」
「慧…」
「生きてくれ…頼むから」
 慧一の涙が俺の頬にも落ちて流れた。
 俺はどうしてこの人にこんな苦しい涙を流させてしまっているのだろう。

 月村さんの事は聞けなかった。聞かなくてもわかっていた…

 あの人は「死」を覚悟していた。その時を迷っていただけだ。
 俺に救いを求めても、結局はその決意を覆すことは出来なかった。
 俺は…救えなかったんだ…

 翌日、警察から月村さんの自殺についての状況や原因を色々と聞かれた。
 隠すことなどひとつも無かった。
 二日後、俺は自宅に帰った。
 親父も叔母達も揃っていて俺を案じていた。
 俺はインターネットで俺と月村さんの事が色んな掲示板に晒されている惨状を知った。
 ひどく傷ついた。俺のやったことを否定されるのならまだしも、こうまでして貶める輩の気が知れなかった。傷つく必要はないのに、やたら腹が立つ。

 慧一は昼も夜も俺の傍から離れようとしなかった。
 煙たがっても文句を言っても。
 初めは常に慧一が傍に居ることに緊張して、言葉を交わすことが少なかったけど、日が経つにつれ、俺は 月村さんの事を想い、少しずつ吐露するようになった。
「俺、救えると思ったのに…思い上がりも過ぎる。ここまで来るとバカみたいだ。慧一の言うとおりにあの人から離れれば…あの人はもっと生きていたのかも知れない」
「人を救うなんて簡単にできない。でもあの人は凛の存在に救われていた…それは確かだよ」そう言うと、 慧一は俺の目の前に画集と一枚の紙切れを差し出した。
「彼の遺書だよ。凛一宛だ」
「え?」
「おまえが寝ていたベッドに…山百合の花と、これが置いてあったんだよ」
「…」
「あの人はおまえを本当の天使だと思うことで、救われていたのかも知れない…」
 その画集には見覚えがあった。
 月村さんが俺に見せてくれたものだ。

「凛一を天使にたとえるならラジエルだ」月村さんはその画集の天使を指差し得意満面で俺に言う。
「七大天使のひとりだね」
「そう、秘密の領域と至高の神秘の天使と言われている。この世のすべての秘密を知り尽くしてセファー・ ラジエールという書を書いたんだ。ほら、よく見てみろ。凛一にそっくりだ」子供みたいな純な顔で俺を見つめる。
 俺に似ているのかどうかは定かではなかったが、月村さんがあまりに嬉しそうに言うので、俺もその絵に 描かれてあるラジエルの恰好を真似たりしたんだ。
 あの人は本当に俺を重ねていたんだろうか…この天使の姿を。

 封書にも入っていない一枚の紙切れを手に取った。
 月村さんお気に入りのウォーターマンの青インクで書かれてある。
 俺はその紙に書かれた文字を読んだ。

 『凛一、君は何者にも束縛されない自由なる魂の持ち主だ。
 故に生きていく道のりの重さを知るだろう。
 僕はその道すがらに佇む傍観者にすぎない。
 僕は君の姿を見つめるだけの存在であるべきだったのだろう。
 どうか手を伸ばしてしまったことを許して欲しい。
 あまりにもきらめく虹色の羽を欲しがったのは事実だ。
 僕はその一枚の羽で満たされると思った。
 ありがとう、凛一。
 僕のことは忘れてくれていい。
 願わくば君の糧と成りえることを。
 ありがとう。僕は幸せだった。』

 勝手な思い込みのその手紙は俺を怒らせた。
 幸せだったって言うのなら、あなたはそれで良かったんだな。
 だったら俺は望みどうり、あなたを忘れてやるよ。
 あなたを喰らって消化させて、俺の血肉となるがいい。
 それが永遠の解放だ。
 さよなら、月村さん。
 あなたの天使の凛一はあんたにくれてやる。


rajieru



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宿禰凛一 「追想」 19 - 2009.06.09 Tue

19.
 俺を見た瞬間の月村さんの表情は、これ以上にないぐらいに驚き、言葉が出ない風だった。
「なに?その顔。お化けでも見たみたいだ」
「りん…いち?」
「そうだよ」
「…どうして、ここが?」
「俺、探偵になれるかも。と、言っても月村さんは証拠残し過ぎだよ。完全犯罪はあなたには無理だね」俺は例の写真を月村さんに見せた。
「ここに居るんじゃないかと思ったわけ。見事にビンゴだ!俺の勘も大したもんだと思わない?」
「凛一から離れる為にここに来たのに…その意味が無くなってしまう」
「何故だよ。俺から離れる意味って何?」
「俺はもうすぐ死ぬんだよ、凛一」
「…嶌谷さんから聞いた」
 月村さんは俺の言葉に驚き、そして自重気味に笑った。
「同情してくれるのかい?君にはなにもしてやれることもない俺に…」
「月村さんには俺が必要だと思う。違う?」
「…」
「俺は医者じゃない。あなたの病気を治すことはできない。でも…傍に居て欲しいとあなたが望むなら、俺は居たいんだよ。それを同情って呼ぶんなら、それでもいいけどね」
「直にピアノが弾けなくなる。こんな俺に価値はないだろう。凛一が傍にいる理由はない」
「月村さん…どうせ死ぬのなら、あなたの好きな奴が傍に居た方が気持ち良く死ねるんじゃない?」
「…死ぬまで傍に居てくれるのかい?」
「あなたが望むならね」
「天国に導いてくれるかい?凛一」
「あなたの望むところなら、どこへなりとも連れて行くよ」
「凛一…キスをしてくれ…おまえを離したくない…」
すがりつく月村さんの身体を、俺は抱きとめた。
 俺の胸で嗚咽する月村さんを哀しいと思うが、それ以上に…
 月村さんの弱さをどこかで軽蔑しながら、俺は必要とされている事に自分の存在価値を見出している。
 最も卑怯なやり口であなたを利用しているわけだ。

 月村さんは二ヶ月前に見た時より、ひどく痩せていて弱りきっていた。
 この二ヶ月間、いくつかの病院で治療方法を探していたが、静かに療養するしかないらしく、それも「生」への時間が僅かに伸びるだけで、死への道は逃れそうにない。
 ならばと医師の止めるのも聞かず、昔友人から受け継いだこの別荘で、誰にも看取られずひっそりと死んでいこうと決めていたらしい。
「お生憎様だったね、俺が勝手に来ちゃったから」
「俺は運がいいんだよ、きっと。天使に見守られて死ねるなんてな」
 月村さんはここで死ぬと決めている。
 俺はそれを止めることが出来るだろうか…それは正しいことだろうか…

 俺はひとつのベッドに月村さんと一緒に寝る。
 どんなに誘っても月村さんは欲情しないから、俺も半分ふざけて素っ裸になってやる。
 裸になった俺は、月村さんの身体を抱きしめるようにくっついて眠るんだ。
「俺に羽があるかどうか、裸にならなきゃわかんないだろう。どう、月村さんの目と両腕で確かめてみるんだね」
「その高慢さが、天使の役得かもしれない。本当は凛一を見ているだけで、充分救われた気がしていたはずなのに…人間というものは貪欲だね。こうやって君を腕に抱いていると、このまま連れて行ってしまいたくなるよ」
「じゃあ、あなたが俺の死神になるわけだ。…別にいいよ、試してみたらいい…それで死んだら、俺は天使じゃないってあなたにもはっきりわかるしね」
 俺の挑発に月村さんは真顔で、俺の首を絞める真似をする。
 俺は知ってるよ。あなたにそんな勇気はないことぐらい。

 ところが身体の疼痛に耐えかねて痛み止めのクスリも効かない時は、月村さんは一変する。
 俺の制止も効かない。手が付けられない程に暴れて苦しがるから、俺は恐ろしくてたまらない。
 このまま狂って本気で殺されるんじゃないかと思うことすら多々ある。
 いや、本気でやられても、弱った月村さん相手に、俺はなんとでもかわせる力はあった。
 ただ俺にはそれを払う意思が少ないって事だ。
 恐ろしいことに愛してもいないこの人に手をかけられたとしても、俺は恨む気にはならないことがわかっていた。

 たったひとつ気になることは、俺が死んだら、慧一はどうするのだろう…その一点だけが気がかりだった。
 俺は思い余って慧一に携帯電話を掛けた。この別荘じゃ電波は入らない。
 俺は月村さんに気づかれないよう、買い物に出たフリを装い、バス停の近くで連絡を取った。

「凛一か?どこにいるんだ!」
 電話の向こうの慧は俺が思っている以上に切羽詰った声で、俺は思わず次の言葉を飲み込んだ。
「凛…どうした。頼むからおまえがどこにいるか言ってくれ。おまえが旅行に行くと言ってもう十日も経つんだ。連絡しようにも…携帯の電源を切っているんだろう?凛」
「慧…は俺が死んだら泣く?」
「…何言ってるんだ。いい加減にしろよ」
「俺、殺されるかも知れない…けど、恨まないでよね。その人が悪いんじゃないんだ。俺が救えなかった罰だと思ってくれよ、慧」
「おまえが死んだら、俺は許さないから。そいつもおまえも、世の中の奴全てを許さないからなっ!凛、帰ってくるんだ。おまえが居ないと俺の生きる意味はないって…そう言ったはずだ。覚えているだろ?」
「…ごめん、慧」
「俺が守るから、戻ってきてくれ、凛…」
 俺は電源を切った。
 慧一の最後の懇願が俺を揺るがせた。
 戻りたい…そう思った。
 目の前にバスが止まる。
 これに乗れば慧の許へ帰ることが出来る…

 通り過ぎたバスを見送りながら、俺は慧一の哀しむ顔を思い浮かべた。
 そこまで追い詰めたのは俺だ。
 慧一が俺をどんなに愛しているのかわかっている。それを試す為にこんなところに来たのかもしれない… なんて、今頃気づいても遅いんじゃないか…
 だけど、月村さんの為にここにいたいと思っていることも、本当なんだよ。
 ごめんなさい、慧。
 殺されても恨まないでくれよ。








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宿禰凛一 「追想」 18 - 2009.06.08 Mon

18.
 俺は月村さんのアパートに行き、月村さんの行きそうな場所の手がかりを見つける為、部屋中を探し回った。
 テレビさえ置いてない必要最小限のこの部屋に、ひとつだけ似つかわしくない鎌倉彫の小さな三段引き出しがある。
 俺はそれを探す事にした。
 数枚の葉書や封書の束、そして数十枚の写真があった。
  ピアノを弾いている月村さんや、友人と一緒に写っている写真は、アメリカでの生活が垣間見える。月村さんの表情は今の彼とは随分違って、生き生きとし、野心的にも見えた。彼は今、どんな思いで自分の「死」を受け入れているのだろう。

 写真の中にひとつだけ違和感のある風景があった。
 林の中に浮かぶ萌黄色の外壁と臙脂色の屋根。その屋根を飾る天使の形をした風見鶏。
 月村さんはここに行ったんじゃないかと、ふと思った。
 写真の裏にこの場所を記した住所が書いてある。

 俺はこの場所に行くことを決めた。丁度いい具合に明日からは夏休みだ。

 自宅には一週間前から夏季休暇で帰国している慧一が居る。
 俺と慧一はお互いにどこか気兼ねしながら、距離を取っていた。
 どちらかが踏み出そうとすると、一歩引き下がるように一定の距離から縮まらないのが、もどかしい。
 俺が悪いのは判っている。
 心を開くことを拒んでいるのは俺の方。
 この人に甘えたいのに、俺は慧一が俺の事を少しでも嫌ったり、負担に思ったりするのが、不安で怖くてたまらないんだ。
 本当に愛想つかされ、完全に捨てられてしまったら、俺はひとりになってしまう。
 そうなる前に俺は自分の還る場所を探さなきゃならない。

 それが月村さんとは思えなかった。
 だけど、あの人が俺を求めているのは判りきっていた。そして俺と同じように、彼は俺に触れることを怖れている。だから俺は手を差し伸べてやりたい。
 そして彼の命が本当に限られているのなら、せめて俺に出来ることをしてあげたい。

「慧、俺しばらく友達と旅行に行くから」
 俺はキッチンで夕食の支度をする慧一に声をかけた。
「しばらくって、どれぐらい?」慧一は手を止めて俺を見つめる。
 慧の目を見るとウソがばれてしまいそうで、俺はすぐに視線を外した。
「…一週間…ぐらいかな」
「どこに行くんだ?」
「長野の方…」
「連絡先を教えてくれ」すかさずメモ帳を目の前に出す慧一に、少し腹を立てながらペンを取った。
こんな時だけ俺を縛り付けようとする。
 俺はメモ帳に「Satyri」の電話番号を書いた。
 もし何かあれば、慧一はここに連絡する。そしたら否が応でも慧一は俺の素行を知ることになるだろう。
 俺がどんな人間か、どんなことをしているか、慧一には知る権利がある。彼は知るだろう。俺の本質を。
 慧一が「天使」と読んでいた凛一はどこにも居ないことを。
 軽蔑するだろう。二度と俺を愛しているとは言わないだろう。

 愛されたいのに嫌われたいなんて、矛盾している。
 俺は慧一に対する感情をコントロール出来ないんだ。

「凛一、話があるんだ…」慧が俺に近づいてくる。俺は一歩後ろに下がりながら、
「何?俺、宿題片付けておきたいんだけど…」と、言った。
「…帰ってから言うよ」慧一は眉を顰め、俺を見つめた。
「そうしてくれよ」
 俺は逃げるようにこの場を去る。
 慧一の視線を背中に感じながら、俺は自分のするべき道を選んだ。
 ごめんね、慧。俺はまた兄貴に心配をかけるかもしれない。


 翌日、俺は写真の家を探す為、長野に向かった。
 中央本線から乗り継ぎ、小さな駅に降りバスに乗った。
 揺れながら走る車内から外を眺めると、田園風景が目の前に広がった。
 まだ金色に色付いていない稲穂が風にさわさわと靡いている。
 その背景となる近くに遠くに連なる山々との境目が不思議な色合いに包まれて、神秘とさえ思えた。
 都会でのスモックに塗れたビルディングの狭間を舞う風とは色も温度も違う。
 それだけで気持ちが晴れた。

 半時ほどで景色は変わり、緑の木々の間にいくつかの別荘が見え隠れする。
 まだ開発中の別荘地らしい。
 俺は前持って調べ上げていた駅でバスを降り、目的の別荘を探した。
 白樺の木々に囲まれた細い街道は、舗装されていない砂利道で、そこを二十分ほど歩くと、車のわだちの跡もないけもの道になる。
 曲がりくねった道の両側は白樺の林とうっそうとした緑に囲まれた森に近い雰囲気で、人の手入れなど感じられない茂みだ。しかもゆるい坂道になっていて、次第に息が上がっていく。
 森の影で陽が薄くなるにつれ、先ほどまでの颯爽とした気分は消え、焦りが一層濃くなってくる。
 見つからなかったらどうしよう…と、不安になった頃、緑に見え隠れしながらも、漸くあの風見鶏を見つけることができた。
 月村さんがここにいるとは限らないが、兎に角あの建物を目指そう。
 俺は足を速めた。

 近寄って建物を良く見ると、写真のものより色合いも風情も損なって見えたが間違いはない。そう思って、玄関に繋がる階段を昇っていくと、ピアノの音色が聞こえてきた。
 ショパン…ノクターンOp.9をジャズ風にフュージョンしている。
 …間違いない。月村さんのピアノだ!

 俺は逸る心を抑えて、静かにドアノブを回す。
 正面のアップライトピアノを弾く、月村さんの背中が見えた。
 彼は俺が入ってきたのも気づかずに、ピアノを弾き続けている。
 俺はその場に立ち竦んで、その音に身を委ねていた。
 優しいメランコリックなショパンの旋律はそのままなのに、月村さんのジャズのニュアンスが混じると切なさが増す。
 胸が締め付けられるほどに…
  
 俺はその孤独な背中に近づき、そして、両手を伸ばした。




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宿禰凛一 「追想」 17 - 2009.06.07 Sun

17.
 俺の存在意味を示してくれるのは月村さんだ。あの人は俺を本当に必要としてくれる人だから…だから俺は、あの人の傍にいたい。

 携帯電話をかけても一向に出ない。
 元々携帯が嫌いな人だ。いつも電源を切っている。
「どうして?」と、聞くと、「電話に出たら、嫌が応でも自分の居場所を知られることになるから、見張っていられるようで気持ち悪いんだ」と、子供のようなことを言う。
 あの人の精神は常にそうだった。
 汚いものには目を瞑って、美しいものだけを賛美する。触れる勇気も無いくせに。
 だけど、それは真っ正直な見方ではある。
 俺はその側面に惹かれてもいるんだ。

 月村さんのアパートに行く。
 部屋は暗い。鍵もかかっている。俺はいつものように鍵を開けて部屋に入った。
 今夜は満月だ。
 部屋の灯りをつけないまま窓を開けると、月の光が部屋に零れた。

 月村さんはどこに行ったのだろう…
 あの人は孤独だ。
 俺には帰る家も家族も居る。だけど、あの人は放浪者で、ただピアノだけが唯一の拠り所だった。
 あの人の哀しみが俺には理解できる。俺なら彼の孤独を埋めてやれることができる。
 そう考えるのは傲慢なことだろうか。
 その晩、俺は独りで傾いていく月の姿をいつまでも追いかけていた。

 月村さんは帰ってこない。

 もう一週間にもなる。アパートの大家さんに聞いて見るが、連絡は受けていないという。家賃は半年先まで前払いしてあるから、そのうち帰ってくるだろうというのが、大家さんの見解だ。
 それならいいけど。

 ひと月…ふた月近く経っても月村さんは姿を見せず、何の知らせも無かった。
 嶌谷さんなら何か知っているんじゃないかと思って、アレコレと問い質すけど、のらりくらりとかわされるだけだ。終いにはこっちが窘められる。
「凛一が月村さんを心配するのはわかるけど、おまえとは違う対岸に居る人だよ。もう諦めなさい」
「どうして…そんな事言うのさ」
「俺は…おまえが傷つくのを見たくないんだよ、凛一。おまえが…」
「嶌谷さんは勝手だよね。自分が正しいと思う理念を俺に押し付けている。俺は嶌谷さんが決めた道を歩かなきゃならないわけ?」
「そうじゃないよ。でもわざわざ土砂降りの道を傘も持たないで歩く必要はないだろう」
「土砂降りでも嵐でも、俺自身がそれを感じなきゃその恐ろしさはわからないだろう?…ねえ、嶌谷さん、教えてくれよ…月村さんは…どこか、具合が悪いんじゃないの?それでここをやめて…違う?」
 戸惑いながら嶌谷さんは目を瞑った。
「俺に言わせるなよ、凛一。言いたくない事もあるんだよ」
 嶌谷さんは顔を顰め、口ごもる。
「それでも、教えてよ、嶌谷さん。後生だから」
 俺は必死で頼み込んだ。
「…」
 嶌谷さんはすがる俺に輪郭だけを教えてくれた。

 月村さんは不治の病で、もう長くは生きられない…と。






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宿禰凛一 「追想」 16 - 2009.06.07 Sun

16.
 その年の新年は、親父も帰っていて家族3人で過ごす羽目になった。
 親父は結婚を前提に付き合っている女性がいると報告し、慧一と俺はそれを祝福した。
 父親の幸せを子供が願うのは当たり前だ。そしてその逆も又しかり、と、親父は言う。
「おまえ達の幸せが、死んだ母さんと私の願いなんだ。なにもしてやれない父親だが、ふたりを信じているよ」
 勝手なことばかり言う親父は今に始まったことじゃない。しかし、腹も立たないし、反感すら抱かせないっていうのはこれはこれで凄い人徳の持ち主だ。
 俺も慧一も顔を見合わせて呆けてしまった。

 親父と慧一が自分達の居場所に帰ると、俺は俺のホームグラウンドに直行する。
 今や「Satyri」の店だけじゃなく、月村さんの狭くて汚いアパートも根城にしていて、ポストの中にある鍵を開けて勝手に部屋に入り込んでも、月村さんは怒らない。
 俺は家事もそこそこ出来るから、ふたりで食事をしたり、そのまま泊まる事もしょっちゅうだった。
 ただ月村さんは、俺とセックスをすることは求めていないらしく、俺が誘っても本気で嫌がるばかりだ。
 ホモフォビアではないらしいけど、ゲイの人たちが集まる「Satyri」が苦手だとも言う。
 だからと言って、俺とのキスは嫌いではないらしい。
 初めて俺からした時は、戸惑ってキレ気味に怒ったりしたけど、今では自分から求めてくれるようになった。

 月村さんのキスは独特だ。
 いつも躊躇いがちに俺の口唇に触れ、確かめるように何度も繰り返し、慣れた頃、その舌がおずおずと口内に入り込む。そのやり方が何かに恐れを為している様にも見え、俺は哀れみさえ覚えてしまう始末だ。
 この人はどうしてこんなにもピアノ以外のすべてに、不器用なのだろう…と。

「月村さんの髭がちくちくして痛いよ。ちゃんと剃ってよ。その方が若返るし、かっこいいと思う」
「面倒臭くて毎日剃れるかい。それに髭がある方がジャズピアニストとしては箔があるように見える」
「月村さんらしくない理由だ」
「大事なことだよ。俺はピアノを弾く為に生きてるんだ。そのための見かけだったら少しは気にするさ」
「…月村さんはピアノの他に大事なものはないの?」
「そうだね…今は凛一がいれば他はいらないかな」
「俺は男だけど、いいの?」
「凛一は天使だから男でも女でもないんだ」
「…ペニスあるよ」
「現実に引き戻すなよ。夢を見せてくれてもいいだろう」
「おっさんの癖に馬鹿みたい。だいたいさ、絵に描かれてある天使だってほとんどが男じゃないか。月村さんは俺におっぱいがあったら欲情するわけ?」
「…たぶんしない」
「じゃあ、性別は関係ない。月村さんは俺とするのが怖いんだ」
「凛一を犯したら…俺は天国に行けない。君が穢されるのが恐ろしい。俺はそんなものは見たくない。だから、凛一にそんなことを求めていない」」
「あなたは誤解しているよ。俺はイノセントじゃないし、気に入った奴とならすぐに寝る奴だよ。あ、そういう俺とするのが嫌なわけだ、月村さんは」
「…そうじゃない」月村さんは俺から顔を叛けた。
 月村さんは本当の俺を見ようとしない。
 俺は天使なんかじゃないのに…

 春になって、中学最後の学年を迎えた。
 取り敢えず必要な友人の数は揃った。上辺だけだとしても、一応の学校の情報力を求める努力はしておいた。
 気のいい友人達は、偽善としても俺に多少の優しさと親しみを持って接してくれる。
 俺もありがたく受け取っておく。
 と、言っても俺の帰るところは結局大人の中でしかなく、俺はそこで自分に還ることができた。

 嶌谷さんも店の常連さんたちも俺を一人前の宿禰凛一と認め、俺は彼らの中から深く浅く闇も光も見出すことが出来た。
 月村さんのピアノはまさにそれを具現化する。
 月の光のようにきらめき、暗い深海にゆっくりと漂うように音を奏でる。
 その音に身を任せるだけで、俺の頑なな魂の一部分が溶かされ高揚する。
 そう、喩えて言うなら、いつもは隠している翼を無限に広げたい感じ。

 いつの頃か時折、彼の左手から生み出される構築されたメロディのイメージが、ぽつぽつと抜け落ちるように聞こえることが多くなった。
 月村さんはそれを右手で上手くカバーしているし、もともとジャズはクラシックみたいにきっちりと楽譜通りに弾かなきゃならないものでもないから、殆どのお客さんはわからなかったけど、玄人の人達は首を捻ることが多くなった。
「どうしたの?」と、聞いてみても月村さんは「なんでもない」と、言うばかりだった。

 五月の或る晩の事、俺は月村さんの出演だからといつものように「Satyri」に出向く。
 楽屋に月村さんの姿は無く、いつまでたっても来ない。
 嶌谷さんに聞いても曖昧に誤魔化そうとするから、俺はしつこく詰問した。
 嶌谷さんは渋りながら、月村さんが「Satyri」の仕事をキャンセルしただけじゃなく、契約を解除したと言う。
「何故だよっ!」
「腕が落ちたからと言うんだ。納得できない演奏をお客さんに聞かせるわけにはいかないからって。凛一も知ってるだろう?近頃の月村さんの演奏は冴えなかったじゃないか」
「だからって、辞めさせなくてもいいのに」
「止めたんだがね…せめて契約期限までは、って…」
「ここを辞めたら月村さんはどうするのさ」
「凛一、あの人は大人だ。おまえが心配することじゃない。もう月村さんに付きまとうのはやめなさい」
「嶌谷さんにはわからないんだよ。月村さんはひとりじゃ生きられない人だよ」
「だからって俺は、月村さんにおまえを選ばせないよ、凛一。これは大事なことだ。月村さんから離れなさい」
「嶌谷さんは…あの人をなにも知らないんだよっ!」




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慧一の話は  早春散歩1よりどうぞ~
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