浄夜 その一 - 2011.07.31 Sun
高等部の僕の寄宿舎の部屋から見る夜空は美しい。
星月夜も格別だが、下弦の三日月は昔、絵本で見たゴンドラに似て、夜天を漂っているようだ。
今夜は晴れ。星も月も隠れる雲はない。
きっと、今夜、彼はやってくるだろう。
「メル、来たよ」
ベランダの硝子を二回叩き、ドアを開けて姿を見せたのは、アーシュ。
僕より二つ下の中等科の二年生だ。
二階にある僕の部屋に、椋木を昇ってやってくる。
十一月のこの時期、空気は冷たく、夜露は霜柱に変わると言うのに、彼はパジャマの上にタフタのコート一枚を羽織ってやってくるのだ。
部屋に入れたアーシュの身体を、僕はそっと抱きしめる。
暖めるには一番手っ取り早いからだ。
アーシュも嫌がらない。
ふふと笑い、「メルはいつもあったかいね」と、身体を摺り寄せる。
もうすぐ13になるアーシュは伸び盛りだが、僕よりも頭ひとつ程低い。
濃い褐色の柔毛から、いつものように薄荷草の匂いがする。
瞳を見つめる。
今夜は嫌に艶っぽい。
その意味は聞かなくてもわかっている。
浄夜
アーシュを見たのは、彼が学長のトゥエに拾われたその日だった。
保育所に連れてこられたアーシュは、とても小さかった。
保育所では幼子は珍しくないし、赤子だってよく見ていた。だけどこんなにも生まれたてを見たのは初めてだったから、その小ささに驚いた記憶がある。
純真無垢な姿に誰もがかわいいと微笑んだ。
赤子のアーシュの髪の色は薄い灰色だった。
瞳の色は今と変わらず、深淵の藍色。星が散らばっている。
彼は捨て子にもかかわらず、誰彼構うことなく感情をばら撒かせ、元気に泣き喚き、笑い、甘えていた。
当然の如く、誰もがこの子を愛しく思い、大事に育てた。
アルトは他人を信頼したり、愛したりすることは苦手だ。
対応する相手の心の複雑さにこちらが疲弊してしまうからだ。
もし誰かを愛してしまったら、頼りきってしまったら…後はいつか来る裏切られる日を恐れて生きなければならなくなる。
愛も信頼も、初めから無いほうがマシだと、僕ら、アルトは考える。
より力を持ったアルトは余計にそうだ。だって、他人を頼る必要がないのだから。
ただ、アーシュの無垢なかわいらしさは、信頼や愛とは関係なく、「癒し」として保育所の皆を幸せにした。
アーシュには生まれ持った品格があった。
彼は生まれながらの王かも知れない。
だが、それを気づかせない通俗的な観念の姿でいるから、粗方は誤魔化された。
彼は民を弾きつけるには、万全の姿で存在する。
僕は彼をずっと見ていた。
彼に惹かれ続けた。
彼を振り向かせたいとか、愛し合いたいとかではない。
彼の心と身体を犯したいという俗物的欲望だった。
また、同時に彼の足元に平伏したい。とも願った。
この相反する欲望は、歳を追うごとに膨らみ続け、だが比例して、それを抑える理性も育っていくものだから、僕の中で見事に調和されつつあった。
13の時に「真の名」を学長から与えられた。
学長トゥエの前に跪き、その名を頂いた時、僕が求めるものは、この力で何を示せるか、の答えだけだった。
僕の為すべき道をトゥエに質した。
「君はカノープスだよ、メルキゼテク。時代を導く者」と、彼は言う。
その言葉を僕はこう解釈した。
時代を導く者を、導く案内人。
ではその導く者とは一体誰だ。
…聞かなくても知っていた。
だから僕は聞いた。
「アーシュは…何者なのでしょうか」と。
トゥエはそれぞれの両手の人差し指を天と地に向けた。
これもまた、無限の解釈ができる。
見る者の受け取り方は千差万別だ。
光と闇を統べる者、その逆。
それを統一する者、または壊す者。
均衡。新しい未来…
そして、無。
「未来は動いています。彼が何を選ぶか、私にはわからない。だが彼に委ねるしか無いのです」
「では、ルゥは…ルシファーの存在は」
僕はこの時点でルゥの「真の名」がルシファーだと突き止めていた。
後に続く名はどうだっていい。最初の名が総てなんだ。
「ルゥはこのサマシティの子ではない。我々の未来とは関係がないのです」
「だけど、アーシュはルゥを選んでいる。ならば未来は彼を引きずりこんでいる」
「彼はここに居る存在ではない。彼もそれを知る時が来る。それまでの仮宿なのです」
「…」
アーシュはそうは思ってはいまい。
ルゥはアーシュが4つの時に拾ってきた子だった。
繊細で綺麗な子だった。アーシュは彼を「セキレイ」と呼んだ。
その名によりルゥはアーシュの刻印を受けている。
彼らは双子のようにくっついて遊んだ。
僕はうらやましくてたまらない。いや、保育所の誰もが彼らを羨んだ。
すべてを委ねあう者が、親のない僕らにはいないからだ。
アーシュは僕の存在を意識していなかった。
保育所で育ち、ずっと一緒に暮していながら、彼にとって僕は他の子と同じ大勢の中のひとりでしかないのだ。
彼は天性の無頓着さで、他人を自覚しない。
彼の目に認められた者が、彼との絆を繋ぐ事ができるのだ。
それは王である彼に許された傲慢さであろう。
僕は待った。
彼が僕に気が付く、その日を。
彼が僕を求める、その日を。
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